昭和44年02月08日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 ここんところをいろいろに頂きます。信心しておかげを受けてくれよと、いわゆる信心しておかげを受けられる氏子にお取立てを頂かなきゃなりません。ここで信じたところ自分の信心というものを検討したり、自分を掘り下げていきますと、自分こそくずの子であろうと、自分こそ神様の目からご覧になったらくずの子であろうと分からして頂くところから本当の神様の働きが頂けるというようにいつも頂きますね。
 今日は私はここんところをですね、神様に喜んでもらえる氏子、神様に安心してもらえれる氏子、そこにはもうくずの子というものではない意味のおかげを頂かしてもらわなきゃなりません。神様に安心してもらえれる氏子、神様に喜んで頂けれる氏子、ですからここではおかげを受けられない者、そういうおかげを受けられない者をここではくずの子というふうにまあ頂きたいと思うですね、今日の場合。
 昨日大阪の「森かずこ」さんから細々と書いております、お便りが来ましたなかに、本当にこちらにおります時に合楽の信心を本気でもう少し頂いておくべきだったと言う様なことを繰り返し書いております。合楽の信心も現在、それこそ日本一と言った様な大きな教会に御神縁を頂いて、毎朝寒修行にも出らして頂きよると言うのです。ところがどうしてもやはり、なじめないと言うんでしょうかね、まあ合点がいかないというか、本気でもう少し合楽の信心を頂いておきたいとこう。
 頂いておきたかったと言うのである。まあ合楽の信心をどこまで頂いたらいいかと言うと、こらもう限りがないですけれどもここのところだけは頂いておきたいという、ここのところまでは合楽の信心を分かっておきたいというところがありますね。「食物はみな人の命のために天地の神の作り与え給うものぞ」とこう、食物訓にありますが、これは私は信心は人間の、一番大事なものというものでしょうけれど、人間の真実、幸せになるためにあるものぞと、信心というのは。
 信心は人間氏子が本当に幸せになる事の為に信心はあるのだと。しかもいつも間違いのない幸せのためへの指針というね、方向が指し示してあると言う事であるね。果たしてそんなら沢山のまあお道の信奉者もありましょうけれども、真実幸せのために信心を頂いておる者がどの位おるだろうか、ただ自分の我情であり又は我欲であり、そういう人間的ひとつの欲望というものをより頂きたい、より満たすために信心しておるとすると、そういうおかげはよし頂いても人間の幸せのためにはならないのですね。
 我情我欲を満たすために何十年間信心して、私はそういう氏子がどのくらい多いか分からんと思うですね。それではせっかくの信心は人間の真実、幸せのために、それもこの世だけではない、あの世までも幸せになれれるために信心はあるのだ。と言う言をです、私は合楽的というかね、合楽で御神縁を頂いてる人達はそこんところをひとつ分かっておかなきゃいけない。
 まあ昨日の朝の御理解で言うならばですね、そういう信心の頂けれる目鼻だけは付けておかなければならんということになりましょうかね。ですからそういうところが分かっていないとするならば日参り夜参りできておっても、これはまあ神様の目から見りゃかわいそうな氏子ということになるのじゃないでしょうかね。気の毒じゃということになるのじゃないでしょうかね。
 信心が熱心にできておるようであってもね、昨日の御理解を頂きますと、本当の信心を頂く、いわゆるあの世この世を通して、おかげの頂けれる信心の目鼻だけは付けておかなければならない。只信心は頂いておっても雪だるまを、言わば転がしておるように、只それがだんだん大きくなっていくことだけが楽しみのような信心であっては何十年信心しておっても、どのように例えば大きなおかげを頂いておっても、これは私、神様の目からご覧になりゃあくずの子だとこう思うんですね。
 可愛いもんじゃ、可愛そうなこっちゃ、それだけじゃいかんのだ。いつも神様にご心配をかけておる、そういう例えば参ってくれば来るほど、おかげが頂きたいと言うて参って来れば来るほどです、そこんところの焦点を変えないかと、その生き方ではいくら参って来ても、神様のご安心と言う事にはならない、神様のお喜びと言う事にはならないね。例えば昨日の御理解を頂いても、そうしてお参りをして雪だるまのように大きくなって、いわゆる大きな御用ができたところでね。
 それこそ千両箱積み上げるような、例えばならお供えができたところで、神様はそれで喜びなさらん、ですからここんところをですね、ひとつ私は不信心者ほどとこう言うておられることはお参りをして来ないという意味じゃないと思うんです、信心がない者が不信心と言うけれど、信心をしており、朝参り夜参りしておっても、私は不信心者という人が沢山あると。それはいわゆる真の信心を頂こうとしない信心です。
 ですから不信心でしょうが。只おかげを頂きたいという信心ですから、これは本当の信心じゃないから、不信心と同じ。私はここにはですね、もうこれほど毎日毎日参って来よる。これほど神様なしにはと言う様にして参って来よるけれども、だからそういう一生懸命にお参りでもでき、一生懸命御用でもできるというほどしの信心を頂きながら、信者でもありながらです、不信心であると言う事が神様がもう不憫でたまらんなさらんのじゃなかろうかと。今日そう言う所を一つ分かりたいとこう思うんですね。
 もう本当に熱心によう参って来る、御用もできると言う様な、それなのに不信心だからそれはね、私は思うのですけれども、全然御神縁を頂かない、言わば信心がない又はたまに参って来ると言う様なのはです、私は神様は特別に可愛いとは思いなさらんと思うですね。ここでは、あ今日の言ったとで頂きますと、まあ時節を待って本気で打ち込むことを祈っては下さってもですね、ですから本気で打ち込んでおると言う事、本気でお参りをしておると言う事。
 そういう本気でお参りをして本気で打ち込んでおるのにもかかわらず、いわゆる信心のそこを反れておるのです。それが私はもう本当にもう親先生親先生と言うて側に、例えば寄って来るです、毎日寄って来てもですよ、寄って来れば寄って来るほど神様の情というかね、親先生の信者に対する情というものが熱うなってくる。熱うなっていくけれども、いわゆる不信心である。そう寄ってくれば情の点においてはもうどうにもこうにもできんほどにかわいいけれどもです。
 それが本当の信心に焦点を変えないかぎりです、私は神様はご心配だと思う。神様はいよいよ、神様の不安はつのると思う。神様はそう言う氏子であればある子ほど悲しいと思われるに違いないと思う、いいですかだから私は今日はね、信心のない人とか時々どんしか参って来んという人はですね、今日はここではくずの子の中にも入らない。神様がかわいいと言うて下さる対象にはならない。として今日はここ説いてますね。なら皆さんのようにこうやって本当に毎日朝参りに一生懸命できておる。
 それでいてです、そんなら合楽で説いておるところのいわゆる根本のところ、森かずこさんじゃないけれども、本気でもう少し合楽の信心を頂いておくべきであったというその合楽の信心とは、どこを説き、どこを分かってもらおうとして一生懸命骨が折れておるかということ、そのために例えば修行をしておるかということ。にもかかわらず、一生懸命お参りができておる、いわゆる親先生、これはもう親と子の中にあるわけです。けれどもその子が言わばくずの子。
 おかげが頂けない、それはね信心の焦点が間違ってるのである、いわゆる信心はしよるからと言うて信心じゃないここで言うと。いわゆる信心はしよっても不信心と同じこと。その不信心者ほど神はかわいい。一生懸命もう金光様でなからにゃならんごと言いもし、もう金光様の言うならば大帰依者でもある信者氏子がですよ、何十年たっても、いわゆる昨日の御理解で言うならば、あの世にも持って行けこの世にも残しておけると言う様な信心の目鼻もつけようともしないことが神様の嘆きなのだと言う事。
 可愛いものじゃ、もう可愛いその神様の不憫というものはいやましにつのる訳です。これではならいくら、例えば何十年の信心が続いても、神様に安心してもらえれる、神様に喜んでもらうと言う事にはならんのです、それが例えばんなら雪だるまのような、おかげを頂いていってもですよね、それは随分おかげを受けてですね、なるほど金光様の信心すりゃあげんおかげを受けられるじゃろうかと、言う様なおかげを受けておる人があってもですよそれは。
 けれども私は神様にご心配をかけ、神様を悲しませるような、只おかげだけに留まっておるとするならばです、とてもその御用ができると言う事だけ位を喜びなさるこっちゃあない。そういう出来れば出来るほど、そういう信心が出来れば出来る程、いわゆるあの世にも持っていける信心の目鼻を付けておけよという神様の願いが切実だと私は思う。その切実なものを私共が受けて立たしてもらう時に初めて信心がね、食物が人の命のためにあるように、食物は人間が美味しい思いをするためにあるのじゃない。
 命のためにあるのだ。信心は信者氏子がおかげを頂くためにあるのじゃない、ここではね。信心は人間氏子が本当の幸せになることのためにあるのだと、そこではあ本当に私こそくずの子だなというふうに、まあ今日の意味でのですね、いつもここんところと全然違いますから、そこんところ間違えないようにしないといけませんね。本当に我こそくずの子であるという自覚に立ってです、ならそのくずの子の自覚に立って、立つというか葛の子であるなと分かったらですね。
 分かったら本当に神様に喜んで頂く信者氏子にならして頂こうと。この言を通して本当の信心を分からしてもらおう。この問題を通してあの世にも持って行けこの世にも残しておけれる徳のもとにもさして頂こうと。例えば本当の意味での信心の目鼻をつけさしてもらう発心というものが必要じゃないでしょうか、今日はですから皆さん、熱心にね皆さんのようにこうやってお参りができておる人を対象にしての今日は御理解ですよね。時々しか参って来ない者に対しての御理解じゃない。
 今日の御理解は、こがしこ合楽合楽と言うて参って来ておるという氏子、そういう氏子ですから自分の手においてから神様の側に寄って来る、親先生の側に寄って来るのですから、親先生の情にしたところでです、私は可愛いという心が起こって来る筈だとこう思う、なら例えば自分のここでまあ子供の中にですね、いざりになっておる子供がおると致しましょうか、生まれながらにして目が見えない子供がおると致しましょうか、それでもやっぱり親じゃからね。
 あぁお母さんお母さん、お父さんお父さんと寄って来りゃ寄って来るほどです、もうこの子と一緒に死んでしもうたがマシっちゅうごたる親の情というものはつもるもんです。この子がもう親が亡くなったらどうするじゃろうか。世間ではどう見るじゃろうか、見てくれるだろうか、もう本当にこの子と一緒に死んだ方がマシというような私は心ができてくる、つのると思うんですね、親として。なら皆さんがですよ、やっぱお父さんだからお母さんだからそのいざりの子供がですよね。
 足の立たない子供がですよ、目の見えない子供がお母ちゃまお母ちゃまと言うて寄って来るならもうかわゆうしてかわゆうしてこたえん。それが親子です、どうかしてこの目を開けてやれる方法はなかろうか、どうかして、この言わばいざりが立つようなおかげの頂けれる道はなかろうか。いくらお金はかかったっちゃよかばってんと思う。それでもできんなら、もうこの子と一緒に死んだ方がマシと言う様な心すら私は起きてくるのが親の情だと思うんです、くずの子ほど可愛いというのはそれなんだ。
 合楽にこうやってしげしげとお参りをして来る。親先生親先生と言うて、親先生の側へ寄って来る。ところがその人がいつまでたっても目が開かない、いつまでたっても足が立たない。その親の情というものはその不憫さというものはいよいよつのってくる、どうかしてこの目を開けてやりたい、どうかしてこのいざりが立つように歩ける、人並みに歩けるようになったならと思う情というものはつのるばっかり、そこんところの私はひとつのまあ人情的な機微からでもです。
 皆さん分かって頂きたい、もう私こそ毎日毎日こうやってお参りしよるのに、親先生親先生と言うて、親先生も確かに有り難いと思うとるのに、もう誰が何様を拝めと言うたところで金光様より他には拝まんことは分かっておるけれどもです、それだけではおかげは受けられないて。親の情というものはいよいよつのればつのるほどです、目を開けてやりたい、足を立たせてやりたい、それが親の願いである、そこで例えば御教えにもありますようにね、信心する者は肉眼をおいて心眼を開けとこう。
 私共はいつまでたってもいつまでたっても肉眼の世界だけしか見らない、心の目を開かせて頂くと、そのことは有り難い、そのことは有り難い。そのことによってお徳が受けられるということがはっきり分かるのだけれども、いわゆるその目を開こうとしない、だから、今日のここんところはですよね、今日のくずの子とか、不信心者ほどというところ、または信心しておかげを受けてくれよというのは、今まで私が説いてきたのとは全然違うでしょうが意味が。
 今日は私はもう本当に合楽に日参り、夜参りでもしておるという人だけ、言うならば、もう親先生親先生と言うなら親先生の信心に慕うてくる人だけ、本当に親先生の信心がまあ言うならば素晴らしいことだけが分かっておる人、分かっておってもそれをなら皆さんのものになっていかなければ親の不憫はますますつのるだけだと言う事。そこではあ私こそ、そうであろうと分かった時にくずの子の自覚ができる、そして本気でです、信心の目鼻を本当のね。
 ここで私が不信心者というのは、信心がない人という意味ではなくて、毎日お参りをしてきておっても、只おかげ信心から一歩も出てないというならば、これはいわゆる不信心だと今日は私説いてるんです。毎日参って来とっても、真の信心を目指していないならばそれは不信心だと言うておるのです、それが長年続けば続くほどですね、続けば続くほど、成程盲らであろうがちんばであろうが、親はやっぱりです、縋ってくりゃ乳も飲ませますよ、ご飯も与えますよ、着物も着せてくれますよ。
 だからご飯が食べられとる、着物が着れておるというぐらいなことでです、腰掛けとったんじゃあ、親の不憫はいよいよつのるばかりだと、ここに親の願いであるところのどうぞ、なら目を開けてやりたいというその願いにです、私共が沿わせて頂こうとする、そこに信心してということになってくるのじゃないか、はあこげなこっちゃいかん、これは本気でひとつ本当の信心を頂かにゃんと。
 そこからです、本気の信心をさして頂こうというところからです、言わばものの見方、考え方というものが、言わば世界が変わってくるです。世界の情勢が一遍に変わるわけじゃないけれども、見方が変わってくるです、合楽の信心を本気で頂いておけばよかったという、その森さんのその言葉からです、そんならどこまで分かっておけば合楽の信心が身に付けた、分かったと言う事になるかと、神様に安心してもらえれる、喜んでもらえれるおかげ。いつまも神様を悲しませておる信心からですね。
 本気で私は、いわゆる真の信心ちゅうと、そのなんですね、月並みになりますけれども、まあ他に言いようがない、私は本当にそこんところの信心を、「信心しておかげを受けてくれよ」と仰る信心をですね、だからここでは信心というのを、やはり昨日からの御理解で言うならば信じる心、真心、そして神心と。というそういう信心を目指していかなければならんのだけれども、もう合楽に20年参りよる、もう10年参りよると言うてもです、言わばどれだけ真心が篤うなったか、どれだけ神心が篤うなったか。
 昨日一昨日でしたか、一昨日中村さんとこの娘が今、福島の方におられます。「えみこ」さん。えみこさんが参ってこの頃母、ばあちゃんは参って来よりますじゃろうか。ここ2、3日毎日参って来なさるよ、あんたげんばんちゃんはもうほんなこて、先生から気合ば入れられるしゃんとしちゃるもんねっちゅうてからいう話。そうですよ親先生から怒られなければもうずっと朝から悔やんどるとですけん。親先生から気合を入れられるともうぱっと変わられてから、はっと気が付くわけですね。
 と言うんで、ひとつ気合ば入れて頂かないうふうな意味のことを言うんですけれどもです、中村さんがもう15年も参っとったでしょうか。本気一生懸命、まだ今の普請が出来る前でしたが、一生懸命のまだね、15年も前ですから若さもあったし、一生懸命信心ができておった時分にそのひとつの願いが成就した時ね。神様からちょうどご本部参拝させて頂いた奥城で教祖様の奥城の前で頂いたこと、「中村喜久世」と言う言を、喜び久しい世と、改めよと言う事であった。
 はあお徳を受けられたと私は思うた。けれどもお徳が受けられたのじゃない。これからはこれ一つに絞っていけよと言う事だった、今まではカタカナでキクヨと書いてあった、ね。それを喜び久しい世と言えよと、喜びをなくしたら、後はくよくよになるぞという御理解だったね。「喜久世」から「喜」の字をとってごらん、くよくよになるでしょうが。だから中村さんが不平不足を言いよんなさる時やら、こう元気んない顔ばしてござる時には必ず喜びをなくてござると。
 ですからもうくよくよがずっと、くよくよばっかり出てきておるわけね。これも2、3日前娘さんの初美さんがね、親先生にお願いしてくれんの、元気な心が出るごとお願いしてくれんのというお願い。私は少し勘違いしておったですから、初美さんが只願いよると思ったもんだから、親が元気な心出すよりか、あんた自身が元気な心を出しなさい。いや、母がそげん言うてお願いしよりますとこう言うのです。
 だからなら帰って言うときなさい、あんた方お母さんの周囲ばいっちょ見てみなさい。もう考えてみるとあれもおかげこれもおかげ、おかげばっかりの中におるじゃないのと、これも中村さんが頂いておられました、これも20年も前だったでしょうかね、ある事を一生懸命神様に、家の神様にお願いしござったげならね、心理に響いてくることがね、中村さんのね、おかげば頂き足らんごと思うとるというお声じゃった。まあだその時には家もできとらんじゃったね。
 まあ言うなら今よりもずっとまだ程度の低い、言わばおかげじゃった。それでも神様はです、もう10おかげはやってある、おかげのまあだ頂き足らんごと思うとると頂いたと途端にです、はあほんにあれもおかげこれもおかげと思うて、心が有り難うなったという、ですから今日なら、尚更おかげ頂いておる。初美さん考えてご覧、私は2、3日テレビ見よったが、東京都のあのタクシーの事故の統計が、ニュースか何かで話しよったが、100台のうちに一年間に55台事故に遭うっちゅう。
 事故を起こすっちゅう。してみるとあんたげん「清」さんならもう何年そのタクシー会社に勤めておるかと。もう本当に無事故状態でおかげを頂いておる、その一事だけでもどのくらい神様の御守護を受けておるかおかげを受けておるかと言う事が分かるじゃないか。ばあちゃんにそれを帰って言いなさい、家の養子息子がです、こげな仕事さして貰っておって、これだけのおかげを頂いておると言う事はこげん有り難い事はない。お神様のお居間もできた、最近の人は本当に近代的な綺麗な炊事場も立派にできた。
 どこに不平不足があるか、どこにくよくよしておらなければならないか、喜びいっぱい、信心というものは年をとっていくほど有り難うならにゃいけないというのに、有り難うなっていきよらんならばこれはおかしい。中村さんが私、親先生もう親先生なしにはと言うて下されれば言うて下さるほど、もう中村さ、あんたいくつになるのと。ここの総代をするようになって何年になるのと。
 もう老い先それこそ何十年もはもう生きられんばいね。今こそ喜びを心に頂かせてもろうて、喜び久しい喜久世というお名前を頂いたとおりに心の中に頂いて、それをあの世にも持って行けこの世にも残しておけるというものにしていかにゃどうすんのと。まあだそこんところの目が開かんのと、今日の御理解で言うなら言いたいところじゃないでしょうかね。もう親先生なしにはと中村さんが言うて下さりゃ言うて下さるほど、私の願い思いというものは切なのです。今日の御理解と同じね。
 ですから本気で合楽で私が朝から晩まで説かして頂いておるというとこはどこかね。そこんところをひとつ、身に受けて身に付けてですね、神様に安心してもらえれる、喜んでもらえれる信者氏子にお取立てを頂かなければいけない。本気でもう肉眼をおいて心の目を開かしてもらわなければいけない、そういう私はですね、信心を本気で身に付けたいと私はそういう信心の目鼻をつけなければいけない、一遍にできるわけじゃないけども、例えばそうくよくよしなければおられない問題を通してです。
 はあこれによって、信心の本当の意味での目鼻をつけさして頂こうという願いに燃えなきゃいけない。これがどんなに年取っても信心ばかりはね、五体でするのじゃないから自分の心ひとつ、いわゆる和賀心ひとつでおかげを頂いていくのであるから、寝ながらでも分からして頂けれるのが信心。しかも信心とは只おかげを頂くためのものではなくて、食物が命のためであるように只、おいしいと言う事だけにあるのじゃない。それはもうつきものだ美味しいというのは。本当は命のためにあるもんだ。
 信心はおかげを頂くためじゃない、信心は人間が真実幸せになることのためにいつも、くよくよじゃなくて、喜久世であるね。喜びを頂かして頂くことのために信心はあるのである。その信心におかげはついてくるのであるね。私はそこんところ私は本当に分からして頂いた時です、私は森かずこさんが言われる合楽の信心をもう一段、もう少し頂いておきたかったというのは、そこまでは頂いておかなければ私は合楽の信心の値打ちはないというふうに思うのですね。
 今日はくずの子と言う事、不信心者と言う事、信心しておかげを受けてくれよというおかげというのはどういう意味のことか。日頃言う不信心者というのは、信心のない者という意味ですけど今日はもう毎日こうやって日参り夜参りでもできておりながら不信心であると言う言を不信心と言う言を説きましたね。またくずの子と言う事もです、信心がない者という意味ではなくてです、毎日お参りをして来ながら焦点の違った信心をしておる者を、私はそういう人がです、本気ではあ自分こそくずの子じゃろうという気に早う気付かなければいけないと言う言を説きましたですね。
   どうぞ。